慰め

贖いを味わう

(ヘブ 6:5) 神の良い言葉とこれから来る体制の力とを味わいながら,

パウロはヘブライ 6章5節で
聖書や贖いを個人的にとらえるという点を
次のような表現で表わしています
ヘブライ 6章5節です
“神の優れた言葉と来たるべき事物の体制の力とを
味わっておきながら”

“味わう”とは極めて 個人的なことで
誰かに代わってしてもらうことはできません
自分の口に入れなければ実際の味はわかりません
贖いも同じです
では どうすれば 贖いを“味わう”
つまり 個人的にとらえることができるでしょうか?
二つの点を考えましょう

一つ目は 自分は神から愛されているだろうか?
それに値するだろうか?という不安です

時折 わたしたちは
まだ生じてもいないことで煩うことがあります
そして 実際に試練や困難が生じると
”エホバはわたしを愛しておられないのかもしれない”
と考えるのです

わたしたちは 何にでも原因と結果があると考えがちです
その視点が定着すると
自分に生じることには すべて原因があると考えるようになり
エホバに愛されていないからだとまで考えてしまうかもしれません
良いことを行なっているのに悪いことが生じると
“同年代の人は みんな健康なのになぜ?” と考えたり
新たな割り当てを受けてここを去っていく人について
あっという間に物事が決まったと聞くと
“わたしはまだ仕事も決まっていないのに…”と考えたりします

しかし 物事が思い通りにならないからといって
エホバから愛されていないというわけでは決してありません
どんなに良いことを行なっていても困難に直面することがあります
たとえば 交通ルールを守って運転をしていて
赤信号で止まり 青信号で再び走り始めると
いきなり赤信号を無視してきた車に衝突されるかもしれません
あなたのせいではありません
そんなとき“もう交通ルールなんて守らない”
“そんなの無駄だ”などと言うでしょうか?
落ち度は 信号を無視した方にあります
悪いことや困難は誰にでも生じえます
自分に落ち度があるのでも神に愛されていないのでもありません

贖いについて黙想することは
こうした不安に対処する助けとなります
贖いは なぜ備えられたのでしょうか?
それは 非常に好ましくないことが
アダムとエバの子孫である わたしたちに及んだからです
二人が犯した罪の結果として わたしたちは苦しんでいます
贖いはエホバがもたらす解決策です
この備えにより 神は“その苦しみは知っている”
“でもわたしが解決する”と言っておられるのです
そうです エホバが贖いを備えた理由を熟考すれば
わたしたちが ガンや高齢や不完全さに苦しんでいることを
神がご存じだということを思い起こせます
そのように 贖いを個人的に味わうなら
試練に遭っても “エホバから愛されていない”
とは考えないでしょう
むしろ贖いにはエホバとイエスの愛が
そして 諸問題を解決したいというお二方の願いが表われています

【ジョン・エクラン:贖いを「味わう」(ガラ 2:20)】抜粋

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